[ 異郷 no.13, 2002.6.8 発行より]

  1880年の「5コペイカ銅貨」

 日本の外務省の支援による、「日本のなかのロシア」取材チームが1月末に来日したが、2月12日から16日までは、函館での取材がおこなわれ、私もできる範囲で協力させていただいた。彼らの取材日程はきつかったが、そのうちの貴重な数時間をさいて、函館でロシア人旧教徒が暮らしていた土地を撮影に行くことになった。メンバーはロシア極東国立総合大学のソコロフ助教授とカメラマンのアスミルコさん、それに「ニコライ祭」の講演のため折しも来函されていた中村喜和先生と私の4人である。

 案内役の私も、実は今からおよそ10年ほど前、中村先生の調査をお手伝いして以来、そこには行ったことがなかった。果たしてその場所がすぐにわかるかどうか、大いに不安だったものの、何とか唯一残されている「笹流露国人の農業」と題された1917年頃の写真に近い風景をみつけることができた。手がかりとなったのは、遠景に写っている山の形である。その写真にみえるロシア人の住んでいた家屋はとうになくなり、遺物は全く残されていない。現在は畑や牧草が広がっているだけであった。

 函館の旧教徒たちについては、中村先生が丹念な調査をされていて、何度か活字にもなっていることは周知のとおりである。ところでいざ撮影となってみると、映像となるものがその風景以外にないことに、残念な思いがこみ上げてきた。女はスカーフをかぶり、男は赤いルバシカを着て、ジャムや黒パンにスイカを売り、馬車追いをしている姿、大正中期から昭和初期の地元の新聞には、そんな様子が描かれている。せめてその姿を覚えている人たちがいないだろうか…、もしや写真や遺物を持っている人がいないだろうかなどと、改めて感じてしまったのである。

 私自身の問題として、聞き取り調査が十分であるとは言い難かった。このような調査は地元に住んでいるものでなければ、なかなかできない仕事でもある。そこで、遅きに失した感はあるが、ともかく機会があればこのあたりの御老人たちから話をうかがってみようと、ささやかな決意をしたのであった。

 思いがけなくも朗報はすぐにやってきた。トラピスチヌ修道院からそう遠くないところにお住まいのKさんは、昭和3年(1928)生まれで、私の家族と親しい人である。たまたま家に遊びに来てくださった時に、何気なく「昔、ロシア人が住んでましたよね」とお尋ねしたところ、「そうだ、そうだ。団助沢に」との御返事がかえってきた。団助沢は旧教徒が住んでいたところとして有名な場所で、トラピスチヌ修道院の近くなのである。Kさん御自身ではなく、お父さんから彼らの話を聞いたという。Kさんの父は、団助という地名はロシア人の名前からついたと話してくれたそうだ。ダンスキイとでもいったのだろうか。団助の由来を確証する資料はないのだが、地元にそのような説があるのは実に興味深い。

 Kさんの家は代々農業をなさっている。Kさんの父は明治33年(1900)生まれで、若いころには、時々トラピスチヌ修道院に頼まれて、牧草刈りなどの仕事を請け負っていたそうだ。その時、ロシア人たちが住んでいる家に行って、パンを買ったというのである。その家の場所は、正確にいえば団助からもう少し海側に近い「笹流」のことらしい。パンを買ったロシア人の家には若い娘がいたので、その娘の姿がみたくて家の中をみようとすると、娘の父親がそれを察して、手で追い払うような仕草をしたと、笑い話で聞かされたそうである。私がKさんとこの話をしたのは、もののついでという感じだったが、それでもこのようなおもしろい話が聞けて満足だった。

 またもう一つ、Kさん御自身の思い出として、湯川にいたサファイロフとクラフツォフというロシア人のことも聞かせていただいた。Kさんが小学生の頃というから、戦前の話だが、サファイロフの家に行って木苺のジャムと黒パンを買って食べたそうだ。サファイロフは老人なのに、一緒に暮らしていた日本人女性は若いのでロシア人の父と日本人の娘とは不思議な気がしていたそうだ。この女性は娘ではなく、年の離れた奥さんであるが、小学生のKさんには違和感があったかも知れない。クラフツォフには背が高くハンサムな息子がいて、Kさんよりは3、4歳年上らしかった。湯川小学校に通っていたといい、Kさんの友達のSさんは近所に住んでいたので、よく遊んでいたという。

 Kさんは以上のような話をしてくださり、誰か詳しいことを知っていそうな人がいれば、紹介してあげようといって帰られた。

 その数日後、Kさんから電話があり、亡き父親が残したものの中に珍しい外国のコインがあるので、みせてくださるとのことであった。早速届けられたコインはみるからに古そうで、黒々としていた。それは1880年製の5コペイカ銅貨であった。直径は32ミリほどのなかなか存在感のある立派なものである。表面は真ん中に5コペイカと刻まれ、裏面には双頭の鷲が刻まれている。

 Kさんのお話では硬貨はこのほかにもあったのだが、父親が亡くなった時に他の人にも分けたのだという。恐らくは、笹流のロシア人たちからもらったものだろうということであった。私は期せずして旧教徒の遺物を手にすることができ、深い感慨にとらわれた。ようやく彼らの痕跡を見付けたという気持ちである。そしてこの同じ硬貨を彼らが手にしていた思うと、その存在が非常に身近に感じられた。

 1880年、和暦でいえば明治13年に鋳造された硬貨が、旧教徒たちとともにシベリアを経て、あるいはサハリンを経て函館にたどり着いたのである。今のところ同時代の唯一の証言者であるが、今後もこのような発見があることを信じたい。

<画像:Kさん所有の5コペイカ銅貨>

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